荒木勝先生との対話第一弾 アリストテレスに学ぶ本物のリーダーとは

第二部 アリストテレスの現代的意義

2020年9月16日 於:縄文アソシエイツ

●日本のヨーロッパ解釈の問題点


古田 日本人の精神的基盤を仏教に求めるというお話でしたが、ギリシャ哲学やアリストテレスよりは、やはり仏教の方が、収まりがいいということでしょうか。

荒木 ある面では、その通りです。たしかに仏教にも、唯識など哲学的なものはあります。ただ、論理を追究するというよりは、突然、超越という方向が強調されるのではないでしょうか。それは現世を生きる多くの人間にとっては、ややハードルが高いのではないかと感じます。
 そこで、アリストテレスの論理学や哲学を学ぶ意義が生まれるのです。ただし、こちらも本当に難しい世界です。ヨーロッパでも、大学で教えられているのは『ニコマコス倫理学』や『論理学』くらいまでです。『形而上学』はヨーロッパでも十分に、精密に教えられていません。そこまでの深い研究は一部のアカデミアのエリートたちに任せておけばよくて、私たちがこの世に生きていくうえでは、そこまで細部にわたって学ぶ必要は、ある意味ではないといっていいでしょう。ただ、そういう世界があること、また「心を尽くし、心身を尽くして」学べば、多くのことを学ぶことができ、とりわけ現代の人間が直面している生命の尊厳、法の尊厳を深く理解するうえで重要な問題提起をしていることがあるということは知っておいていいと思います。人間が迷ったときにそれを紐解ける、そういう意味でとても重要な学問です。
 もっとも、二千数百年の伝統文化の違いをいきなりうめるのはむずかしいので、日本人の場合は神仏儒の世界に蓄積されてきた精神文化を身につけることが、まずは大事になっているのではないでしょうか。

古田 神仏儒に軸をおいたうえで、経営者の立場としては、『聖書』や『コーラン』という精神的バックグラウンドをしっかり持つ外国人が経営する会社と相対峙しなければなりません。
 「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」(孫子)という言葉がありますが、神仏儒で己を知ったうえで、やはり相手のことを知らなければ戦えません。この資本主義という仕組みは、もともと彼らがつくったリングです。そこで戦わされるということですから、神仏儒だけでは勝負にならないというのが現実です。
 ところが、日本人が持っている西洋理解は非常に表層的なケースが多くて、私は何を読んでもピンときませんでした。荒木先生が訳された『ニコマコス倫理学』を読んで、はじめて腑に落ちた次第です。「ちゃんとしたことが書いてあったのだ」(笑)と。

荒木 じつは、そこに大きな問題があります。日本人が最初にヨーロッパの思想を受け入れた明治時代には、訳語の多くを仏教用語から借りてこざるを得なかったという限界があったうえに、近代のヨーロッパ人のものの考え方にもとづいてヨーロッパを学んでしまった。つまり、近代ヨーロッパの視点でヨーロッパの古典を学ぶことになったのです。

古田 直観や直知というものは、全く顧みられなくなってしまったわけですね。
 経営者の中にも、西洋的なものの考え方を学んでいる人は、直感的なもののとらえ方を嫌う傾向にあります。直感なんて何か胡散臭いことのように理解している。実際には、よく考えないで判断していることがあるはずなのですが。
 彼らの中に分裂した部分があります。「ほんとうは経営の中にもアートな部分がある」と思いながらも、「経営はロジカルであるべきだ」と言います。近代を通してのアリストテレスなので、浅いというか、頭でっかちというか、実感がわかないところがあるのです。

荒木 近代経済学の出発点は、アダム・スミスです。

古田 スミスでも『道徳情操論』を読めばわかりますが、そちらを捨てています。『国富論』は読むけれども。

荒木『国富論』もよく読めば『道徳情操論』とペアになっている理屈があります。それは分量的に多くないので、どうしても合理的な経済法則という話になってしまいます。

古田 直観、直知、ヌースという世界が、非科学的なものとしてバッサリ切られてしまっています。ところが、それらをバッサリ切った近代科学主義だけでリングに上がると、これはこれでやられてしまうのです。
 相当レベルの高い経営者でも、ここが弱点になります。それなら仏教資本主義を提唱するほうが、まだましかもしれません。

荒木 私はそのうちアジアが力をつけてきたら、そういうことになる可能性があると思います。


●古典が生きているヨーロッパ


古田 いずれはそうなるにしても、今の現実を戦おうとすると、近代の思考方法を取り払ったうえで、ヨーロッパとは何か、ギリシャ哲学とは何かを考察する必要がありますが、どうすればアプローチできるのでしょうか。

荒木 それこそ大問題です。ヨーロッパですら、近代的思考だけでは不十分だという認識があります。そこにオックスフォードとケンブリッジのオーソリティーがあるわけです。彼らはギリシャ語とラテン語の先生を一つの大学で100人以上抱えています。主としてギリシャ語・ラテン語の教育・研究だけで生活している教員が一大学で100人以上いる。日本では考えられないことです。
 そうやって自分たちの力で古典を読みこなしていくための努力を営々と重ね、優れた人たちが体系化して解説本を書きます。それがあって現代の哲学が成り立っているのです。研究者はみんな彼らに聞きに行きます。「私のプラトン解釈、アリストテレス解釈はこれで正しいのか」と。そこでお墨付きをもらって、そのうえで持論を展開する。こういう循環が数百年以上続いています。
 向こうの強みはそこにあります。2000年にケンブリッジに行ったとき、オックスフォードに見学に行きました。ケンブリッジはすでに古典学部をつくっていましたが、オックスフォードに古典学部はまだありませんでした。その代わり、カレッジごとに10人くらいのギリシャ語の専門家を雇っていた。オックスフォードでも2000年にそれらをまとめて古典学部をつくりました。そうやって古典学を深めようとしていたのです。
 ケンブリッジでは、中国語は言うまでもなく、ヘブライ語やヒンズー教などギリシャ語・ラテン語以外の古典も研究していました。彼らは人類の重要な古典的な作品の言語研究のメッカをつくろうとしています。二千年、三千年かけて人類が構築してきた古典的テキストを、ちゃんと読める人材を育て、それを維持していこうというねらいです。これは、人間の思考の軸をちゃんと残そうということなのです。

古田 第二次世界大戦の総括も、直近の経済界の話題でいえば株主資本主義とステークホルダー資本主義がどうかという議論も、じつはそのようなヨーロッパの伝統的な知の流れの中で成り立っているはずなんです。
 その底流を理解せずに、表面的に日本へもってきて対応しようとするから、いつでもそこにある種のゆがみが出る。そこをファンドに突かれて痛い目を見るわけです。


●経済学の原点は「家」


荒木 経済学のエコノミーは、ギリシャ語の「オイコノミア」(家政)に由来しています。オイコノミーですから「家」です。家をどう維持するかという感覚はずっと残っています。企業も家の拡張であり、最大限拡張したものが国です。ところがいつのまにか、国は公で、家は私だと分かれてしまいました。そこをもう一度考え直す必要があるのではないかと思います。

古田 家と国、その中間形態としての企業の、じつはどこにも公と私の部分があります。国においても、企業においても、家庭においても、人を育てるのは「公」なのです。このことを、今の日本では忘れたことにしています。
 家庭においては、「人を育てるのは学校の仕事」ととらえられています。その学校ですら、先生が働き方改革で「ウサギが飼えない」という話になっている(休日にだれがエサをやるのかという問題で)。生き物に対する思いやりの心を、今は家がマンションで生き物が飼えないから、せめて学校でという話が、それすらできなくなりました。では、学校と進学塾はどこが違うのかという話です。
 家庭も学校も、人を育てることを放棄しています。企業も、株主資本主義のもとでは利益を上げることが命題になり、人を育てるのは二の次になっています。国も、そもそも国をやっている人たちが国の根源を理解していないわけですから、それでリーダーが出てくるわけがありません。

荒木 遠回りに見えても、家づくり、家族づくり、家政づくりをきちんと考えるべきです。私自身、留学するときに苦い経験がありました。ヨーロッパでは、留学する際は夫婦同伴です。しかし、日本の場合は、ほとんどが単身です。費用が出ないからです。
 では、もし私の家庭に問題が発生したら、いったいだれがどう責任をとるのでしょうか。私は、「まともな研究をするためには人間的なバランスを維持する必要があり、そのためには家族は絶対に連れていかなければならない」と思っていましたので、文部科学省や大学の事務サイドと交渉を繰り返し、何とか認めてもらいました。
 今、8050問題が深刻になっています。80歳の親が50歳の引きこもりの子供の面倒を見るという問題です。また老老介護の問題でもあります。例の農水省の元次官の方の事件もありましたが、けっして他人事ではありません。子どもが問題を起こせば、場合によっては、親は仕事を投げ出してでも対応にあたる必要が生じます。子どもを、また親を救うことに全力を傾けなければならないからです。ところが、一般企業では、そういうことは許されていない。でも、それぞれの家庭の事情を認めて働けるような社会をつくらないと、日本はやがて崩壊すると思います。
 イクメンとかいう前に、家庭というものがいかに大切な社会の根幹であるかという合意を、まず社会全体で獲得する必要があるのです。家があっての企業、国家ですから。


●言語を超えたコミュニケーションをどう成立させるか


古田「修身斉家治国平天下」と儒教の教えにもちゃんとあります。

荒木 ところが、その解釈がゆがんでいました。修身というのも、自分の感性や直観ではなくて理性中心です。斉家といっても、家父長としての統治です。
 たとえば家の中で妻と夫を平等の人格として認める、子どもを平等の人格として認めることは、ほんとうは儒教の中にあります。ところが、その部分は日本的な男性中心主義、夫中心主義、父親中心主義になっていきました。そこを改めなければなりません。
 『大学』では、身を修めようとする者は、まず心を正しくしなさい。その心を正しくしようとする者は、意を誠にしなさい、といいます。「誠」は「言が成る」と書きます。「誠心誠意」の本当の意味は、コミュニケーションが成立するという意味です。今の日本では、自分が身を削ることを誠心誠意と言っていて、相手とのコミュニケーションが成り立つことは考慮されません。

古田「言が成る」とは、言の内容で成っているのではありません。
 たとえば、私が荒木先生を理解したと思っている。先生も私のことをある程度理解していると思ってくださっている。それは、言の一言一句というより、「この人はわかる人だな」と思って話すから、わかるという面があります。
 信頼・信用という言葉で言い表されるものは、10年20年のおつきあいで積み重ねられてきた信用もありますが、私は「この人はわかっているんだ」と思う部分があるから、わかっていると思っているのです。
 もちろん知的レベルやバックグラウンドもリスペクトしているのですが、「この人はわかっているんだな」と。このわかっている部分で話せば通じるんだなと。
 この「この人もわかっているんだな」という部分はなかなか言になりません。

荒木 直観ですね、それは。

古田 これが世界中の人間の心にはあるんじゃないかということですよね。
 ギリシャ語でいえばヌース、仏教ふうにいえば大我とか真我というのかもしれませんが、この直観を支えているものは何なのでしょう。

荒木 直観を支えているのは体験、その中での人間と人間の共感と共観でしょうね、お互いの直観的洞察の重なりとしての体験。実生活の中での。おそらく古田さんが体験されてきたときのある感覚と、私が体験してきた感覚とが、どこかで共通しているのだと思います。

古田 それは現世だけの経験でしょうか。生まれ変わりがあるかどうかは別として、人類としてのDNAを受け継いでいますから。そういうなかで、たとえば先生(と規定できるかどうかは別として)が1000年前に体験したこと、先生とつながったDNAが経験してきたことと、私の1000年前につながっているDNAが経験したことの近似だとか、同じ場所で同じ経験をしたかもしれないとか、そういう経験も入りますか?

荒木 入るという人もいます。アリストテレス的にいえば、それは微妙な問題ですね。ただ彼は、「人間もまた生命体である。生命体である以上それは継承していくものだ」と言っているのです。
 人間である以上一個人で在るわけではなくて、産んでつながってきた存在、産み継ぎという中で人間は存在しています。だから長い産み継ぎの中で、たとえば同じような経験を持った人は同じような感覚を継承することもあるだろうという感覚はあります。日本人として生まれ、日本の風土の中で継承するようなものもあります。
 私たちが『聖書』を読んでも、ある部分には感動します。気候風土が違っても、別の文化の書物に触れて感動することもあります。ということは、大部分の人間は、ヌースや直観を共通に持っているということです。
 そういうことを表す作品を、人間はいろいろなところでつくってきました。東洋世界でいえば、神仏儒になるでしょう。そこを今日、もう一度思い起こして、主張すべきことを主張することはできるのではないでしょうか。
 同時に、西洋にも同じような問題がある。そのことを一番バランスよく伝えているのは、アリストテレスだと思います。
 いま日本に必要な西洋理解、というより、西洋、東洋に共通する人間理解のためには、アリストテレスの作品理解が必要であると思います。もう一度アリストテレスを勉強し直す必要がある。そこで私は、今、時間のあるかぎり、アリストテレスの訳を進めているところです。自分のライフワークとして、彼の政治学や倫理学の解説本を書くことが最大の仕事だと思っているのです。


●あるべきリーダーの姿とは


古田 人を育てることは、家庭においても、企業、国においても、人の集団における、いちばん大きな課題です。
 では、人を育てることの先に何があるのか――それはすべての人が幸福に生きるということです。これが最大の目標ですが、その一次元下に、いいリーダーがいるからフォロワーたちは幸せになれるという、生命体としての現実があると思います。そこに、国家や企業、家庭などの集団の枠組みをつくる意味があります。
 要は、「この人についていけば食べていける」という話です。そういうリーダーをどう育てるのか。育てるには選抜も必要です。向いていない人にやらせるのは無理ですから。
 直観における選抜と同時に、リーダーとして必要な経験を作為的にさせることも必要でしょう。ところが、日本の社会は、それを意識的にやることを放棄してきたのではないかと思えます。

荒木 戦後は特にそうです。戦後、誤ったアメリカ的デモクラシーのもとで、悪い意味でのみんな平等主義に陥りました。

古田 だれもが幸せじゃない。しいて言えば金を儲けた奴だけが幸せだという、レベルの低い幸せ観です。
 リーダーを育成する意義はそこにあります。ある意味、犠牲になる覚悟を持つ人が出てくる必要があるのです。本当はやりたくない、といいながらやってくれる人が現れないと困るのです。


●「happy」よりも高次にあるもの


荒木 リーダーにとっての本当の幸せとは何か、という問題に帰着します。
 最近、経営学の中でも、幸せ論や幸福度論がはやっているそうです。たとえば、「感謝する人は幸福になりやすい」など、4つくらいの指標があるそうです。
 たとえそうであっても、その人はほんとうに幸せなんだろうかと、私は思います。たしかに、普通のレベルの幸せ感もあるでしょう。しかし、究極的な意味での幸せとは何かという問題もあります。
 西洋の世界は、ある面でそれを突き詰めています。幸せとは、英語でいえばhappyですが、その中でも最高位のhappyがあります。それをfelicity(フェリシティ)といいます。ギリシャ語でいうと、マカリオスという言葉に相当します。普通にギリシャ人が幸福だという言葉は、エウダイモニアという言葉がありますが、これはhappyと同じです。その最も高い次元の幸福がマカリオスです。
 これは、「祝福される」という意味です。みんなから祝福されること。究極的には、神から祝福されることです。こういう祝福の世界が、究極にあるのではないか。そういう幸福感をリーダーたちは教えられます。
 そうすると、自分がどれだけ金持ちになっても、人から祝福されることはありません。どれだけこの世的な価値を得ても、つまり、能力があり、財産を築き、美しい異性に囲まれたとしても、祝福されることとは別です。
 ギリシャに有名なエピソードがあります。大金持ちのペルシャの大王が、強い軍隊と莫大な財産を持ち、やりたいことは何でもできる、得たいものもなんでも得られる、と自慢します。それに対してギリシャの人はこういいます。「人間の一生はせいぜい70年。日数でいえば2万5000日くらいです。その日のうちで、真の幸福を感じた日がどれだけありますか?」と。そう言われて大王は愕然とするという話です。
 この問題を解いた最高の人物の一人がアリストテレスだと思います。どれほど一所懸命努力して、卓越した能力を身につけたとしても、賞賛は得られるかもしれないが、祝福されるとは限らない。賞賛と祝福とは別です。
 どこが違うのか。賞賛は、ギブ&テイクです。自分の気に入っている相手からの賞賛でないと、いくら賞賛されても私は全くうれしいとは思いません。祝福の場合は、自分と相手の気持ちが通じていて、その人が存在するということは相手にとっても自分にとっても双方がhappyな気持ちになれる。これが最高の幸せだというのです。
 これの意味するところは、「相手が幸せになるために全力を傾けなさい」ということです。新約聖書の「山上の垂訓」の中に、「正義のために命を投げ出した人は、祝福される」と出てきます。アリストテレスもイエスと同じレベルのことを言っているのではないでしょうか。
 そこまでの覚悟で生きている人間がほんとうのリーダーです。こういう次元があると思うのです。

古田 武士道ふうにいえば、ある種の自己犠牲です。それが周囲の人からは「あの人のおかげで」と祝福されるのです。

荒木 武士道の自己犠牲も、自己犠牲イコール、自己の至福感ですよ。そういう世界が日本の中にも脈々と受け継がれてきました。そこをみんなが実感を通して共有できるような教育ができるか、物語や英雄伝などさまざまな角度から語れるかどうか、です。


●日本でリーダーをどう育てるか


古田 現在の日本には、英雄伝のように語られる物語がありません。

荒木 日本は語りませんね。私が幼いころには「郷土の誇りに思う人」という本がありました。愛知県の教育委員会のような組織がつくったものです。その中には、たとえば新田開発した人などが登場しました。日本の各地域の中には、「この人のおかげでこの地域がよくなった」という人物がいると思います。そういう人の物語を、日本人はずっと蓄積してきたはずです。
 それを小中高の教育の中で教えていくことが必要です。人に親切にするとか、うそをつかないとか、そういう人間として当然のことも大事ですが、人として祝福するに値するような人たちもいたということを伝えておく必要がある。そうでないと、人間としての努力の目標が見えてきません。
 郷土の生んだ優れた人物として民衆から祝福された人を、一人ひとり発掘しませんか?

古田 千人規模の企業だったら、「彼の仕事が自己犠牲を伴った祝福されるべき仕事だ」というエピソードが必ずあるはずです。ある時代までは、それにみんなが拍手を送るという共同体的なものがありました。いまそういう企業はなくなってしまいました(売上NO1とかはあっても)。
 昔の経営者は、そういった日の当たらないところで頑張っている人に頭を下げるということを実行していました。それが今では、IR活動だとか、証券会社の若手社員に対応することに走り回っている。それよりも末端の社員に一声かけることを重視する経営者のほうが、共同体のリーダーとして正しい姿ではないでしょうか。


●企業の存在理由は何か


荒木 パンデミックが来た中で、企業が生き残りという話になってきたときに、いったい誰が企業を生き残らせるのか、みんなで考えるべき時が来ているのではないでしょうか。

古田 根本的には、そもそも「何のために企業はあるのか」という問題です。人を育てることを通して、この集団においてどういう人が祝福されるのかが明示されるものです。「この集団はいい」「この集団にいたい」「ここで働きたい」と思う人が一所懸命働く――それ以外に企業が存在する理由はありません。

荒木 私はヨーロッパの企業のほうが、家族経営の重要性を継承しているように思います。よき家族経営とは、家父長が全部総取りする経営ではありません。カンパニーという言葉自体が、「パンを共にする」集団のことです。そういう伝統がヨーロッパの中にあります。
 日本の中にも当然あるのです。そういう伝統を思い出して、みんなでパンを分かち合って生きていくんだというところを再認識するべきです。
 もちろん国家も同じです。北風を吹かせて搾取するだけでは立ち行きません。もちろん、時代の波に合わせて削減しなければならない部分は削減が必要です。しかし、切り捨てられた人を放置するのではなく、必ず国がサポートして生活を成り立たせるという仕組みが必要です。両方合わせてやる必要があるのです。
 ドイツが「社会国家」という概念を掲げたのはそのためです。国家を「ステイト」と訳せば権力機構のことです。せいぜい安全保障団体です。今の日本ではそういう話になってしまっている。そうではなくて、社会そのものなんだという自覚が必要です。ソサイエティとは仲間のことです。お互いに仲間として持続できるようなものがほんとうの国家です。それを明示したのが戦後のドイツなのです。
 戦後の日本は、それをあいまいにしました。そこにもう一度立ち返って、あるべき国家観、企業観、家族観を共有したいと思っています。


●日本型リベラルアーツとは


古田 そのためにアリストテレスが、あるいは東洋の哲学、神仏儒が、役に立つのではないかと、荒木先生はおっしゃりたいわけですね。それを総体としては「日本型リベルラアーツ」というくくりでおっしゃっているのでしょうか。

荒木 リベラルアーツになぜ「日本型」とつけたかというと、ヨーロッパのリベラルアーツは、どうしても机上だけの理論になりがちだからです。時間的にも経済的にも、ある程度恵まれた環境下で、知的に追求されるものというイメージです。
 今の日本に一番欠けているのは、身体と結びつけた知恵(身体知)です。東洋ではそれを「小学」でやらせていた。人に対する応対の仕方とか、掃除をしてきれいにするなどです。ヨーロッパ人の感覚では召使い、サーバントしかやらないことです。それをどんな人間にもやらせることで、人に仕える人・サーバントというのはいったい何をやるのか、身をもって体験させるわけです。
 こうして、人間としてふさわしい所作を身につけるということを、「小学」ではやることになっています。ただし、中国も日本も、必ずしも十分やってきたとはいえませんが。
 その点をもう一度見直し、身体的な教育をやらせることが重要です。なぜかといえば、自分が導いていく民(庶民)がどういう身体的な苦労をしているのか、実感することなしに、正しい統治はあり得ないからです。アリストテレスはそう言っています。
 人間が人間を統治し、よく導いていくためには、自分がよく導かれる人間にならないといけない。ほんとうのエリート主義とは、みずからが非エリートの立場をよく理解して、身体知として落とし込んだ人間がリーダーになることです。これを日本の伝統に立ち返って言ったほうが理解されやすいだろうと考え「日本的」と冠しています。
 残念ながら、ヨーロッパも日本も、エリート教育にはそういう観点が抜けています。オックスフォードのリベラルアーツはすばらしいものです。ただ、そういう点でエリート教育としての弱点があると私は考えています。その点が今日、鋭く批判されています。
 たとえば黒人の問題です。かつてヨーロッパは大量の黒人をアフリカ大陸から連れてきました。今では統計的にかなり詳細なところまで明らかになってきています。一艘の船で何人運べるのかを計算してみると、およそ500年間で約1000万人にのぼります。膨大な数の人間を連れてきて、痛めつけながら社会の土台に据えることで、じつは近代が始まったのです。黒人奴隷によって近代社会の土台をつくってきた、そういう文化であったという研究が、2000年以降アカデミズムの世界ではかなり深められてきました。
 それが今、社会の表舞台に現れ始めています。たとえば、リバプールやブリストルの奴隷商人の像が、人種差別抗議デモによって倒されました。南アフリカの鉱山開発で巨万の富を築き、奴隷貿易に関わり、オックスフォード大学に奨学基金を設立したセシル・ローズの像も倒すことが決まりました。イギリスの本当のエリートたちが、これまで最高のエリートとされてきた人物を否定したわけです。
 これは大きな地殻的な変動につながっていく可能性があります。エリート教育のあり方も、ヨーロッパで根本的に変わってくるかもしれません。


●身体知を含んだ人材育成の必要性


古田 私は昭和51年に鉄鋼会社に入って、最初の3か月間、3直4交代といって、4班編成で、24時間稼働を支えていました。当時はそうやって溶鉱炉を動かしていました。今はコンピュータがやりますが。そういうことを、「いずれ君たちは監督する立場になり、現場に指示命令を出さなければならなくなる。経験がなければだめだ」ということで、やらせてくれました。

荒木 官僚では、地方へ行って若いときから特権的身分を保障され、上から目線で仕事をやっている人もいます。一兵卒としての地位ではないのです。やはり一兵卒としてやらせるとか、大学の中でも一年間は地方に行って農業をやるとか、それくらいやらないと身につきません。何の特権もないかたちで経験する。それが小学的なやり方です。

古田 身体知がないと、ずっと底流に流れている直知とか直観まで行かない。頭の中でこねくり回した理屈になるわけですね。
 庶民が幸せになるためのリーダーの育成というのが、私の今回の人生の課題です。なかでも、企業経営とのかかわりの中でリーダーがどうあるべきかを追究していきたいと考えています。それが結局は、家庭にも国家にも敷衍できるものではないかと思っています。

(完)

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