荒木勝先生との対話第一弾 アリストテレスに学ぶ本物のリーダーとは

◇随聞記――今、なぜアリストテレスを読むべきなのか

今回、荒木勝先生と古田英明会長の対談にライターとして陪席しました。
以下の文章は、対談後の質疑応答を通して、私が荒木先生の言葉を受けて記したものです。内容は荒木先生のお話に基づいていますが、文責は私にあります。(若林邦秀)



●統治とは何か


 アリストテレスは、その著書『ポリティカー(政治学)』において、国家や政治のあり方について詳細に論じています。では、アリストテレスが考える「よい統治」とは何だったのでしょうか。
「統治」はギリシャ語で「アルケー」といいます。ラテン語では「プリンシパートス」と翻訳されました。英語の「プリンシプル」に近い言葉で、その語源である「プリムス(primus)」には「第一の」という意味があります。「プリンシパートス」には、「第一に」「率先する」という意味が込められています。これが「統治」の本質です。

「統治」とは、秩序の外にいる人たちを秩序づけることです。したがって、多くの人の理解を得て、多くの人から支持される必要があります。たとえ王という地位に就いたとしても、庶民が何を思い、どんな生活をしているのか、彼らが何を大切にし、何に苦しんでいるのかを理解しなければ、王の地位を保ち続けるのは難しいのです。
 よい統治者とは、統治される人のことをよく理解する者、つまりよく統治される人間であることです。「まず自ら統治される人間になりなさい、そうすれば統治することがわかる」というのが、アリストテレスのメッセージです。
※日本のアリストテレスの翻訳書は、「アルケー」を「支配」と訳してきました。「統治」と「支配」ではニュアンスが異なります。これが現代日本でアリストテレス理解が進まない原因の一つになっています。


●公とは何か


「公私」の区別といえば、家のことは「私」、国のこと、社会のこと、仕事のことは「公」と一般的には考えられています。特に近年では個を重視する傾向が強まり、家庭の中は、プライバシーという強固な壁で外と隔てられるようになりました。
 しかし、アリストテレスの『政治学』においても、中国の「四書五経」においても、家庭の中が「私」で、家庭の外が「公」であるとは言っていません。家庭の中にも「公」と「私」の両面があると説いています。
 たとえば、子育てを「私」ととらえると、子どもが親の所有物のようになり、仮に虐待などの問題が発生すれば、子どもにはどこにも逃げ場がありません。ここに近代のゆがみの一つがあります。子どもを育てることは家庭の「公」の側面であるにもかかわらず、プライバシーの壁で囲うことで、子どもを「私物化」してしまったために起きる問題です。

「公」という文字には、「広げる」「包み隠さず明かす」という意味があります。一方「私」は、「囲む」「自分のものにする」という意味を持っています。つまり、「私のもの」として凝縮していく思考が「私」、「みんなのもの」として広げていく思考が「公」です。
 国の統治においても、会社の経営においても「公」の精神が大切なように、家庭においても「公」があり、家の中でも「公」の精神を忘れてはならないのです。


●真の幸福とは


 人間の真の幸福とは何か――これは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の一貫したテーマです。
 幸福は、英語でhappyです。この「hap」には、「偶然」「うまい組み合わせ」という意味があります。日本語の「仕合わせ」も、「めぐり合わせ」というような意味合いですから、偶然性の要素があります。アリストテレスは、このような偶然に左右されるものは真の幸せとは言えないと考えました。
 アリストテレスは、各人が持っている能力をいかんなく発揮することが幸福だと述べています。自分の能力を高め、持てる力を最大限に発揮すること、すなわち自己実現です。また、人間が持つ固有の能力である「徳」(知性的徳、倫理的徳)を発揮することが幸福であるとも述べています。
 アリストテレスの幸福論が取り上げられる場合、おおむねこの次元です。しかし、じつはアリストテレスは、もっと掘り下げた究極の幸福について論じています。それが「マカリオス」、英語でいうfelicityです。

 自己実現といっても、自分が満たされるだけで完結すれば、ただの自己満足です。実際には、何か他者や社会から評価されることを実現しているはずです。自己実現は、他者からの評価や賞賛があって成り立っているのです。
 アリストテレスが至った究極の幸福(felicity)は、そのような通常の幸福(happy)を超えるものです。その本質は「祝福」です。
 祝福される行為とは、それを目指して行われたことではありません。他者のために最善を尽くした行為――それが結果的に他者から祝福されるのであり、仮に他者からの祝福という結果が得られなくとも、善なる行為そのものを目的として行われるものです。それは、真のリーダーに与えられる幸福でもあります。


●人間の精神とは


 人間には、動物にはない心の働き=「知性」があります。
 アリストテレスの時代のギリシャ人は、人間の知性には、大きく2つの種類があると考えていました。「ロゴス(logos)」と「ヌース(nous)」です。
 ロゴスとは、物事を分析する、推理するなど、合理的に判断する力で、「理性」と訳すことができます。複雑な物事を分解して理解する科学の手法はこれです。
 これに対してヌースは、全体を俯瞰して直観する力です。たとえば、ある人物を理解しようとするとき、身体的な特徴や心理的な傾向、経歴や生い立ちなど、どれほど細かな情報を得たとしても、それを寄せ集めただけでは、その人がどんな人物なのかはわかりません。実際に対面してみて、直観的に人物の全体像をとらえます。その働きがヌースです。
 ロゴスは細かく分析はできても、物事を総合的にとらえることができない。ヌースは物事の全体を瞬時に把握することができる。ただし、時にその直観は誤ることもあります。そこで、一方に頼るのではなく、ロゴスとヌースで確かめ合い、お互いに補完しながら判断することが重要になります。その相互作用をふくめることで、バランスのとれた総合的判断が可能になるのです。

 仏教や陽明学など東洋の叡智では、直観が重視されます。ただし、そこで得たものを現実の社会で実践する段階になると、直観に頼るだけでは限界があります。そこに分析的な能力や合理的判断というものも加えていかなければならない。そうでないと誤った道を行く可能性があるからです。
 東洋の叡智は直観的な能力を追究しますが、それを世の中の文脈にどう結びつけて実践するのか、そこにどれだけ注意を向けてきたかについて指摘する声はあまり聞こえてきません。これは私たちが東洋哲学を学ぶときの課題の一つだと言えます。
 内面的に真実をとらえるだけではなく、客観的世界の動きであるとか、存在の重みといったものを、どれだけ感覚的にとらえているかが問われます。内面から外面へ、主観から客観へ、実践レベルで移行するときには、そこに何か媒介するものが必要です。それをアリストテレスは膨大な分野にわたって、徹底的に論及してきました。
 ロゴスとヌース、理性と直観を共に生かし、統合する道は、アリストテレスによって示されています。現代人がアリストテレスを学ぶ意義はそこにあります。

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