荒木勝先生との対話第三弾 真のリベラルアーツを目指して

第二部 出処進退とリーダーの宗教性

2021年3月18日 於:縄文アソシエイツ

●経営者に必要な「宗教性」とは


古田 今日のもう一つのテーマ、「出処進退」と「経営者の宗教性」についてはいかがでしょうか。

荒木 まず「宗教とは何か」というところから述べてみたいと思います。日本人には、宗教について大きな誤解があります。
 一つは意図的なものです。それは国家神道を政教分離の問題からうまく逃れさそうとして、「神道は宗教ではない、儀式・儀礼・習慣である」というふうに処理をしたことです。たとえば靖国神社で戦没者の慰霊に政治家が関与したとしても、政教分離の原則に反したのではないと言い逃れができると。
 これは戦前からそうでした。大日本帝国憲法でも信教の自由をうたっています。にもかかわらず、天皇を中心とした国家神道を構築できたのは、神道は宗教ではないと定義したからです。戦後もそれを引き継いでいる潮流が影響力を持っているところに問題があります。

 もう一つの大きな誤解は、近代キリスト教的な思考の影響で、宗教とは「一つの体系的な教義を持ち、超越的な対象、神的な対象を崇拝し、またそれを体系的な典礼によってあがめる集団である」というふうに限定したことです。
 近代キリスト教徒にとっては、アジアに広がっている祖霊に対する信仰とか、自然物をご神体とあがめる行為などは宗教ではなく魔術であると考えられています。「魔術の園」という類いであって、それは宗教ではないというのです。
 アジア人、あるいは北米インディアンたち、さらに遡ればインカの人びとに対しても、そのように見ていたわけです。彼らはみな改宗の対象者、つまり一段低い人種であるとみなされました。そこには、魔術の園を脱することができない民族なのだという近代ヨーロッパ的な偏見があったのです。
 アメリカも建国以来、アジア系蔑視、黒人蔑視という心を持った宗教観になっています。それが相まって、戦後日本の中にも宗教に対する大きな誤解が生じました。

 Religion(宗教)の本当の意味は、自分を超えた畏敬できるものを敬うことです。自己を超えたものの中に、本当に畏敬できるようなもの、あるいはそれを壊せば良心の咎めを感ずるようなもの、これを敬うことです。それが宗教の元来の重要な意味です。
 そういう観点からすれば、人間は、理屈を超えて尊敬・崇敬すべきもの、自分の良心に訴えかけてくれるような存在というものなしに生きてこなかった、そのことを明確に自覚すべきだと思います。
 冒頭に古田さんがおっしゃった、神棚をつくって参拝する社長の行為などは、その直観的な表現でしょう。国家は国家としての祭りを行い、家は家として、会社は会社としての祭りを行うという形で、人間にとっての畏敬すべき事柄を畏敬するという行為を行ってきたのです。それはある種の人間理解の根幹にかかわることです。
 それを自覚できることが、指導者としての大事な資格の一つだろうと思います。それがあることによって、その家族なり、企業なりの本当の共通性、共通の利益、共通善が危機になったときに、自分の利益を放棄して、そういう利益のために自分の一身を投げ出すことができる。そのような倫理が生まれてくるからです。


●リーダーは最高善=共通善=至福を追究する


荒木 じつは、そのことは継承の問題にもかかわります。そういう最高に優れた畏敬すべき事柄に自分の人生をかけるという人が本当の意味でのリーダーだとすれば、それがその人にとっての幸せなのです。
 幸せということについて曇りなき目を持つ人は、その企業、あるいは国家に自分の人生を捧げられる人です。それがその人にとっては最高の幸せです。
 そこに、自分の権力を温存するというふうになってしまうと、共通善ではなくなります。
 企業の本当の共通善に自分の人生をかけることのできる人が、よき継承者を選ぶことができるということです。
 宗教性と幸福観が結びつき、そこがしっかりしていれば継承において自己利益にしがみつくことはなくなるだろうと考えられます。

古田 ただ、「自分でなければ最高善は追求できない」という思いにとらわれる方がいらっしゃいます。自意識としては、先生がおっしゃったような気持ちで、5年前10年前と変わらないでやっているつもりなんでしょう。彼らは体感としてそれを持っています。
 ところが、客観的にはかなり高齢で、まわりから見ると「確かに過去20年間はそうでしたが、最近その判断力が曇っている時間も長くなったのですが……」と言いたくなるような状況があるのです。「会社のためとおっしゃいますが、それはビタミン剤を飲むより自分の健康にいいと思っているからではないですか?」とまわりが思うようになるんですよ。
 それを引きはがすことが最高善を達成することであり、まさに「私」を捨てるということなのですが、それはある種の体力気力がないとできません。高齢になればなるほど引きはがすことが難しくなります。たとえば70代までなら「退いてなんぼ」と最高善のために自分の私心を捨てられますが、80を超えると最高善と私心がうまく分離できなくなってしまうこともあるようです。

荒木 企業の中には定年の規定などはないのですか?

古田 通常、社長は何歳までとかという内規をつくるのですが、逆に定年を守るような人は最高善まで到達していないのです。「自分はしょせん雇われの身だから」とか言って、普通にグライダーを飛ばしているという印象です。
 自分で推進力をもって、過去に何度か激突しそうになる中で飛行機を飛ばしてきた方は、なかなか一般人に適用できるような内規は通用しません。もちろん、何度か心のうちでは「そろそろ自分も退いたほうがいいのではないか」と思っているはずなのですが。
 ところが、やっかいなことに、その方以上にその会社のことを知っている人はいない。ナンバー2、ナンバー3でさえ、自分が課長のときの新入社員のようなもので、30年40年とそれがスライドしてきただけです。
 もっと問題なのは、取引先やステイクホルダーが、また新しいトップに投資するのが面倒なので、できるだけ今のトップを引き延ばそうとします。新社長になれば、また一から関係を構築し直さないといけない。だから心の底から「あなたでないと回りませんよ」というのです。するとやっぱり、「俺がいなければこの会社はダメだ」と思ってしまいます。
「人間ってそういうものだな」「それができないのが人間の歴史なんだ」といってしまえばその通りなんですけれど……。
 そこが最高善とうまくつながるような工夫のしどころはないものでしょうか。


●世界の権力=権威継承の知恵


荒木 ヒントがあるとすれば、ヨーロッパや中国では最高権力をどのように持ち合ってきたかという点を見ておく必要があると思います。
 たとえば、2000年間続いているローマ法王という地位があります。一つは独身制ということで自分の家には継承されません。
 もう一つは法王を超える権限の存在です。確かにローマ法王は頂点であり、その発言は最高に尊重されるのですが、ローマ法王以上の権限を持つ文書を組織がつくれるようになっています。公会議というものです。組織が危機的な状況に陥ったときは、公会議を開催し、そこで議論して決定したことは、教皇を超える権限を持つのです。
 そういう公的な協議の場という形で、時々の最高権威体を持続している組織体は持続するのです。それは大きな知恵です。どんなに優れた法王であっても、彼が任命した枢機卿の仲間たちが議論して、法王の決定にストップをかけたり、場合によっては法王を辞めさせることもできるのです。

古田 アメリカの大統領制は、4年2選までということにしていますね。

荒木 君主制なり首長制は、どこかで任期を決めて交代します。ヨーロッパの場合は、王がいます。王にも終身制と選挙制がありました。イギリスでもいくつかの王家が代わっています。議会やイギリス国教会のウエストミンスター教会には、議論をして王を代える権限がありました。最高権威者を代えることのできるさらに上位の最高権威体というものを持つわけです。
 なぜそれができたのでしょうか。
 英語で「シヴィック・ボディ」または「ポリティ」という言葉があります。「市民体」あるいは「共和政体」。訳語も定まっていません。
 イギリスでいえば、広い意味でのコモンウェルス、ギリシャ語の言葉でいうと「ポリテウマ」という言葉があります。「ポリス」とは国家という意味ですから、「ポリテウマ」とは国家を成り立たせる市民共同体のことです。つまり王が堕落したときに、王が最高権力者ではあるのだけれども、結局最高権威を持っているのは圧倒的に多くの市民からなる体、シヴィック・ボディであるという考え方です。
 だから王政が倒れても、貴族政になってみたり、民主政になってみたり、あるいは王の首を替えるとか、選挙王政にするとか、そういうことを続けながら、そこに永続しているものは「シヴィック・ボディ」「ポリテウマ」という市民共同体なのです。

 日本には、「シヴィック・ボディ」=家族会議という伝統的な仕組みがあります。直系・傍系の家族が集まり、「○○家の跡取りは誰にしよう」などと決めます。岡山には服部家という江戸時代初期から営々と続く一族があり、大体終戦まで、一人の服部家の総理が一族会議を招集するという制度が続けられていました。そこでは、資産管理を主として担当する大本家という制度も考案され、一族の各家が事業を担当するシステムがあったそうです。似たようなことは、他のアジア諸国にもあるだろうと思います。

古田 確かに、そういう知恵は埋もれているものの中にあるはずですよね。

荒木 企業も、いわゆる取締役会ではなくて、その企業を支えてきた御三家とか御十家とかが集まって決めるとか。要するに枢密議員会議みたいなものです。

古田 日本の老舗企業の中にも、複数のファミリーからある種の暗黙の了解で次の経営者を輩出しているところがあります。

荒木 それを制度化して運用しているのがヨーロッパです。たとえば、神聖ローマ皇帝というものがあります。あれは6人あるいは7人、時には8人か9人の選帝侯(神聖ローマ皇帝を選ぶ資格がある皇帝)が協議して選ぶわけです。
 これまでは○○家が続いてきたけれども、ダメだからハプスブルク家に変えようとか、そういう形で人間の集団的な協議をつくっています。

古田 今の話でふと思い出したのは、ヨーロッパ系の会社ではファミリービジネスが多く、ビジネスとは別にファミリーオフィスを持っていることです。一族の資産管理がメインなのですが、それで成り立っているのが、スイスのプライベートバンクです。週刊誌的にいうと、世界中の内緒のお金が集まってくる口座ですが……。
 そういう企業はプライベートバンクと何代にもわたっておつきあいしていて、金融面だけでなく、人事面でも究極的にはプライベートバンクがマネージしているケースが多いと聞きます。
 日本はそこまではありません。

荒木 そういう王の統治をめぐる制度的な設計は、かなりあると思います。おそらく華僑の世界にもあるでしょう。そういうものを日本の企業もよく学ぶ必要があります。そうしないと企業の永続性が担保できません。

古田 アメリカでは、ウォールストリートキャピタリズムが非常に表層的な金儲けの手段として機能しています。日本のコーポレートガバナンスコードは、その表層的な部分だけを取り入れてつくられています。そのため、なんとなくおかしいのではないかと感じながらも、ファンドの食い物になってしまうという状態になっています。
 実際には、アメリカでもヨーロッパでも「王の統治の制度設計」という2000年来の知恵が企業経営にもじつは生かされているのです。
 そのことを日本は何も考えずに、ただ表面的な部分だけで後追いしている感じがします。


●日本にふさわしい権力継承のあり方を


荒木 江戸から明治に移行するときに、本当にヨーロッパの制度を勉強して、また日本が培ってきた重要な家制度というものを保存するという方向に行かなかったことが大きいでしょうね。そこは、第二次世界大戦後の企業家としての総括を徹底的にやるべきです。

古田 家制度にはもちろん悪い面もたくさんありましたが、じつはいい面もたくさんありました。少なくとも現代にはその知恵が生かされていません。

荒木 古田さんにお願いしたいのは、いま日本はそういう状況に立たされているので、もう一度日本的なコーポレートガバナンス、あるいは東アジアコーポレートガバナンスの普遍性を、法制的にもちゃんと表面化させて、続けるべきだと思う。

古田 リバイブ(再生)しないと、ほとんどもう跡形もなくなってしまっています。
 経営トップの交代は、王様の交代と同じことですから、究極的にはそういう知恵を使わないとどうしようもないものですね。

荒木 それに悪い影響を与えたのは、戦前の天皇国体論です。先ほど述べた「シヴィック・ボディ」こそ本当の国体です。国の体ですから。ところが、国の体=天皇の体となってしまった。国とは市民の共同体ですから、天皇の体になるわけがありません。
 国民共同体が最高の権威なのに、天皇が最高権威と言ってしまったがために、それさえ残せば、つまり天皇家さえ残せば日本は永続するということになってしまった。
 たとえばヨーロッパには統治階級があり、その中で話をして「このままだとおかしいから首を挿げ替える」とか「ここは戦争をやめよう」とブレーキがかかる仕組みを持っています。ところが、日本の場合ブレーキがかからない仕組みをつくってしまいました。
 天皇機関説というものに真正面から理論的に政治的に挑んだ、政治家も理論家もいないということです。天皇機関説は、顕教と密教のように使い分けをしただけの話で、本当に天皇国体論を論破しきれていないのです。

古田 シヴィック・ボディを「国のかたち」という線で考えるということですね。「国」とは「コモンウェルス」ですね。国民共同体を「国のかたち」として、考え直さないといけないということですね。

荒木「国のかたち」ではなく「国民の集団」です。国のかたちといったとたんに、ぼやけてしまい、精神みたいな話になってしまいます。そうではなくて、市民集団なんです。そしてまた、市民集団を指導する特定の少数の指導者会議と市民を代表する議会と、国家を精神的文化的に代表し象徴する君主的な存在を持たなければならないのです。

古田 江戸時代には「庄屋」という存在がありましたが、それと似ていますか?

荒木 いや、庄屋じゃダメでしょう。庄屋は農民階級に引きつけられていますから。むしろ公家階級と武家階級の融合みたいな形で当該地域の指導者会議が各在地にあったのだろうと思います。
 地域には「名望家」と呼ばれる人たちがいました。そういう人たちが代々地域のリーダーとしてやってきた。それが社会の変化にしたがってどんどん変わってしまいましたが、そういうものの連続性を維持しながら、仕組みをつくっていく必要があります。
 そういう人たちがしっかりと存在し、その人たちが、その地域の要望に応じて対応したとすれば、すべての富と権力が東京に集中するということはあり得ないはずです。たとえば四国地方にも中国地方にも、九州地方にも、東京に匹敵するような文化的人材育成機関をつくって持続化させるとか。それらが国として全体的に集まってきて、国の方針や方向性の話をするとか。そういう柔軟性のある国づくりをやる必要があるでしょう。

古田 そういう階級がないと、この大本の話であるリベラルアーツも実際は育たないんですよね。

荒木 それと同時に、そういう人たちがパブリックな精神を持つということです。市民の指導者と市民体がフォーラムやアゴラのような場で、説得し説得されて人間として成長していく。これが日本のリベラルアーツに欠如してきたのです。

古田 リベラルアーツなしに「まじめ」にやると、「使い勝手のいい使用人」になってしまいます。

荒木 私が心配しているのは、ミャンマーにしてもタイにしても、おそらくそういう層が近代化の中で没落していって、かなり多くの社会的混乱があったのではないかと。中国も戦前戦後、大きな動乱の中でそういう層をどんどんつぶしていったのではないでしょうか。まだ日本よりましかもしれませんが。

古田 日本はほんとうにベタになってしまいましたから、みんな平等といって。お金とかだけではなく、精神性をベタにしてしまいました。

荒木 どんな時でも遅くはないのだから、今からでも、企業の中でもそういうレトリーケー(修辞学)を大事にするような中堅社員をつくることが先決なのではないですか。そのことを経済界の重鎮にぜひ呼びかけてみてください。

古田 長時間ありがとうございました。

(完)

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