荒木勝先生との対話第三弾 真のリベラルアーツを目指して

◇随聞記――荒木勝先生に学ぶ日本のリーダーに必要な資質(2)

今回、荒木勝先生と古田英明会長の対談にライターとして陪席しました。
以下の文章は、対談後の質疑応答を通して、私が荒木先生の言葉を受けて記したものです。内容は荒木先生のお話に基づいていますが、文責は私にあります。(若林邦秀)



●修辞学を身につけたリーダーの必要性


 修辞学とは、日本では一般にスピーチや文章表現における技法という意味合いでとらえられています。しかし、ギリシャ・ローマ時代以来の西洋社会では、修辞学、ギリシャ語で「レトリーケー」は、はるかに重要な意味を持っていました。
 レトリーケーのラテン語訳は「オラティオ」です。「ラティオ」は「理性」「比例」「根拠」といった意味で、根拠や整合性を示しています。これに「オ」がつくことで「それを言葉に出す」という意味になるといいます。
 つまり、オラティオ=レトリーケーとは、「公衆の前で語る」ことを意味します。
 ギリシャには「アゴラ」、ローマには「フォルム」という公共の広場があり、政治的な議論や裁判などが公の場で行われていました。数百人から、時には数千人の聴衆の前で、説得力のある論を展開するためには、論理的な思考や言語表現上の技法だけでなく、聴衆の心を揺さぶるような情熱、さらにはそこから見えてくる発言者の生き方そのものが大きく影響しました。しかも、単に個人的に生き方の筋が通っているだけではなく、発言者が所属している共同体の価値観と照らし合わせて、社会的、国家的にも筋の通った生き方をしていることが重要なのです。そのことが明らかになって初めて、真の説得力を持つのだといいます。
 ヨーロッパ社会では、このような伝統・文化が2000年にわたって継承され根づいてきました。欧米のリーダーが発信する言葉には力があり、またスピーチする姿にも存在感を感じるのは、そのような歴史的・文化的背景があるからではないかと思います。
 一方、日本においては、対等の市民が公の場で議論をして物事を決めるという文化や慣習が十分に育ってきたとは言えません。もちろん日本的な「あいまいさ」や「和の精神」には長所もあり、それによって繊細で調和の取れた文化や社会を形成してきたのかもしれません。ただ、現代は国際的な場で生きていくことが避けられない時代であり、従来の日本的なリーダーシップの取り方だけでは世界と渡り合うことはできなくなっています。
 残念ながら、近年の日本のトップリーダーの発言やあり方を見ても、国民の心を打つような言葉、国民が心の底から納得し「このリーダーの言うことに賛同し、そのために自分の最善を尽くそう」と思えるような説得力を感じることは、まずありません。
 これは、日本のリーダーがヨーロッパにおける修辞学のように「公の場で議論して人々を説得する」という訓練を受けてこなかったうえ、国民もまたそれを重視してこなかった結果です。
 今、新しいリーダーの資質として「リベラルアーツ」が注目されています。リベラルアーツの中には修辞学も含まれていますが、修辞学の本質に言及した議論が日本で本格化しているとは言えない状況です。リベラルアーツという古くて新しい資質(知性、感性、教養、発想力、洞察力……)を獲得することで、個人としていかに成功するのか。所属する、あるいは統率する集団を繁栄に導き、いかに賞賛され幸福な人生をつくるのか――そのような次元の話になっています。
 公的存在としての人間の生き方、あり方への意識・関心が希薄であること、また、たとえそれがあったとしても国民の前で説得力をもって表現できないことが、ヨーロッパの伝統的な修辞学を身につけたリーダーとの決定的な違いです。日本がこれからのリーダーを育成するにあたって、修辞学の本質を追究し身につけていくことは不可欠なのです。


●目先の実績でリーダーを選んではいけない


 リーダーに求められる資質とは何でしょうか。どのようにしたら、その資質を備えたリーダーを生み出すことができるのでしょうか。
 いま日本に求められるリーダー像を端的に示す言葉の一つが「公士」です。「公士」とは、古代中国の思想家、荀子が定義した人間像の一つで、対立するどちらにも加担せず、私心なく公平な判断ができる人のことです。人間の集団には、家庭、地域社会、企業、国家と、さまざまな層がありますが、どの層であっても本質的に求められる姿が「公士」です。
 ギリシャ語の「アリストクラシー」はそれに近い言葉です。「アリスト」=「最も優れた」、「クラシー」=「力」という意味で、「アリストクラシー」=「最も優れた人」、東洋的な言い方では「有徳者」です。真のエリートを指す言葉です。
 では、どうすれば、そのような公士、有徳者、アリストクラシーが世の中に現れ出るのでしょうか。
 これについては東洋でも西洋でも同様のことが言われています。生まれつきそのような資質を持っていたとしても、訓練や努力によってそれを開花させる必要があるといいます。
 たとえば「勇気」という徳は、勇気が必要な場面を何度も経験することによって、より質の高い、磨かれた勇気を発揮できるようになります。同様に、公の心を発揮するためには、ともすれば私に傾きがちな心を自覚し、そこで踏みとどまって公の心で物事に処すという経験を積み重ねることが必要なのです。
 今の日本では、ペーパーテストで高得点を取れる人、ビジネスで優れた手腕を発揮する(高い利益を上げられる)人が組織のリーダーに選ばれる傾向にあります。しかし、そういう人がリーダーになったからといって、その日から公的な心を発揮できるわけではありません。リーダーとして公の心を発揮するためには、それ以前から、つまり幼いころから何度も「公か私か」と問われる場面に遭遇し、公の心で事に当たる訓練を積み重ねてきた経験が必要なのです。
 私たちは、どういう基準でリーダーを選ぶのか、また公の心を持つ人材を育てるためにどんな教育をするのか、再考すべき時期を迎えているのではないでしょうか。


●リーダーと宗教性


 宗教とは、一神教・多神教を問わず、自己を超えたものに畏敬の心を持ち、それを尊崇することです。よく「日本人は無宗教だ」と言われることがありますが、これは「ある特定の神を信仰しその教義を守る」というスタイルを持たないことであり、日本人が宗教性そのものを持っていないということではありません。
 理屈を超えて自らの良心に訴えかけてくるものや尊崇すべき何かがある――人間存在には、そのような理性を超越した側面があることを、リーダーは自覚する必要があります。
 リーダーとは、家族や自分が生きる共同体が危機に陥ったとき、自らの利益を放棄して共同体の共通善・最高善のために身を投げ出すことができる人です。そのような倫理を生み出す基盤となるものが、自己を超越し理性を超えた畏敬すべきものがあるという直観、すなわち人間がもつ宗教性です。
 共同体の共通善・最高善のために人生を捧げることのできる人がリーダーです。リーダーという地位・立場を利用して自分の利益を最大化しようとする人にリーダーの資格はありません。

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